• U-NEXTで『ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー』を観ました。

    ちさと(高石あかり)とまひろ(伊澤彩織)は、また途方に暮れていた・・・。ジムの会費、保険のプラン変更、教習所代など、この世は金、金、金。金がなくなる・・・。時を同じくして殺し屋協会アルバイトのゆうり(丞威)とまこと(濱田龍臣)兄弟も、途方に暮れていた…。(『ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー』公式サイトのあらすじを引用)

    お金がないという切実さも描きつつ、前作よりもコメディ要素強めだった。「花束みたいな恋をした」いじりがすごい。でもやっぱり“殺し屋”としての仕事に勤しむちさととまひろはスイッチの切り替え方がエグくて怖かったです(褒め言葉)。

    ゆうりとまことvsちさととまひろになったとき、両者同じ部位に傷を負ってるのに動きは全く違うという対比がよく出来てるなと思った。お金がない状況は一緒なのにスタート地点がそもそも違うことにも通づる。最後さ、ゆうりとまことがちさととまひろの立場なら「せっかく仲良くなれたんだ 殺せないよ」になるだろうけど、ちさととまひろは容赦無くゆうりとまことを殺せるんだ…と震えました。

    あと田坂さん、生きててくれて良かった。

  • Netflixで『PLAN75』 を観ました。

    夫と死別してひとりで慎ましく暮らす、角谷ミチ(倍賞千恵子)は78歳。ある日、高齢を理由にホテルの客室清掃の仕事を突然解雇される。住む場所をも失いそうになった彼女は<プラン75>の申請を検討し始める。(引用:『PLAN75』公式サイトのあらすじより)

    まず最初に、架空の話とは到底思えなかった。それくらい現実だった。健康診断会場や炊き出しの場所に<プラン75>の申請窓口が隣接しており、そこには「住民票が無くても申請可能」と掲げられている。支援の場所のはずが、人の命を効率的に切り捨てることができる場所になっているのが悲しかった。そして市役所の生活支援相談窓口は早々に閉まるが、<プラン75>関連のコールセンターは24時間営業だ。そのうえ<プラン75>に申請した人には10万円の給付金がもらえる。たったの10万円。10万円という数字が妙にリアルじゃないですか?そういえばコロナ給付金も10万円だった。こんな少額で何が出来るんだろうと思ったけど、何もできないからこの額なんだろうな。これより多い金額をもらったら人生に希望を持ってしまうし、“支援”になったら“国が”困るもんね。

    あと市役所の職員ヒロムが公園のベンチに寝そべりながら、「これだったら寝れないですね!」と笑顔で言っていたのも恐ろしかった。映画で「排除アート」が生まれる瞬間を目の当たりにするとは思わなかった。

    人権を蔑ろにし、人の命を生産性で判断する。社会的に弱い立場に置かれた人を価値がないと排除する。役に立つ/役に立たない/自己責任/自助努力という言葉、差別的な言説が蔓延するこの社会の不寛容さがたどり着く先がこうなる可能性は大いにある。国の失策が個人の責任に置き換えられ、本来支援されるべき人が結果的に排除されてしまうのはあってはならないことだと思う。死に方を選ぶ/尊厳死と言われれば、聞こえはいいかもしれない。でも選択肢を極端に狭められて、結果的に選ばされた死は自由意志ではない。この架空の世界を架空のままで終わらせるために何が出来るのか、考えていきたい。

  • 柴田文先生の『スキップしたいな』を読みました。

    激務による疲労のため、駅のホームで倒れてしまった医療機器メーカーの営業マン・永田聖。介抱してくれた駅員にお礼がしたい聖は、後日その駅員・来栖修平に再会する。お礼を伝えるも「気にしないでください」と遠慮する修平に、聖は強引に名刺を渡してごはんの約束を取り付けた。約束の日、開口一番に体調を気遣ってくれる修平の優しさに、心があたたまるのを感じる聖。同い年で気さくな修平との出会いは、仕事で私生活や交友関係をないがしろにしていた聖に変化をもたらし…。(引用:裏表紙のあらすじより)

    柴田先生の『スキップしたいな』はシーモアで単話が発売されたときから追いかけていたのですが、その頃わたしは転職後で激務が続き、気が付けば寝る以外は仕事のことばかり考えていました。行動範囲は家と職場、ときどきスーパー。自分は何に心を動かされて、どんなことが好きなのか、言葉にする時間がない。そんな状況が、この作品に登場する永田くんとリンクしているような気がして、読むたびにいつも励まされていました。(作品の舞台が京都なので、その点も身近に感じたのかもしれない)

    好きなシーンはたくさんありますが、私は永田くんと来栖くんが初めて一緒にご飯を食べた日の会話が印象に残っています。

    「僕今日めっちゃ楽しかった ありがとう」

    「あっ ……俺も!楽しかった ありがとう! 」

    「うん ほなおやすみ」

    何気ない会話かもしれないけれど、今日楽しかったと伝えることって意外と難しい。楽しむ気持ちを忘れていたら、もっと難しい。でもそういう壁をひょいっと軽く飛び越えてくる来栖くんがいてくれたから、永田くんは楽しさを思い出せたのかもしれない。こんな場所に金木犀が咲いているとか、電車内で永田くんが勤務する会社の広告を見つけるとか、出会った人の影響で物や景色の見方・捉え方が変わっていく様子が丁寧に描かれているのもいいなと思った。

    後半では永田くんの知りたい気持ち/来栖くんの知られたくない気持ち、そして永田くんが無意識に来栖くんを傷つけてしまったことを反省するシーンがある。時間がかかったとしても、それでも対話をやめず、ちゃんと謝って好きという想いを伝えるところもすごく良かった。

    柴田先生の作品はケアの描写がたくさん出てくる。それがすごくあたたかくて優しい。あと本当に絵が上手い。登場人物の表情が豊かだし、ご飯も美味しそうだし、ふきだしや背景の柄もかわいい。読んでいるとにんまり笑顔になります。基本的に漫画は電子で買うことが多いんだけど、紙でもゲットできて嬉しい。読み終わった後は思わずスキップしたくなる、そんな作品だった。

  • 永井玲衣の『水中の哲学者たち』を読みました。

    哲学することは、世界をよく見ることだ。くっきりしたり、ぼやけたり、かたちを変えたりして、少しずつ世界と関係を深めていく。揺さぶられ、混乱し、思考がもつれて、あっちへこっちへ行き来する。これは朝に目を覚ましたときの感覚に似ている。世界に根ざしながら、世界を見ることはいかにして可能だろうか。(引用:「まえがき」より)

    朝の通勤ラッシュと労働がつらい。

    このつらさの原因は一体何なのか、この本を読んでようやく分かったような気がする。周囲の速さについていけないからだ。電車の乗り換え、質問されて回答するとき、頼まれた仕事に取り掛かるときetc… 必ず速さを求められる。しかもその速さは的確さの上で成り立つことが大前提とされている。思考と答えにも速さが必要な世界なんだ。新自由主義的な資本主義に支配された日常。そんなの当たり前じゃんと思われるかもしれない。でもわたしの場合こういった速さに遭遇するたびに、その事実に絶望する。あまりにも速すぎる。もっと効率よく。問いは許されない。世界は「そういうもん」になっている。でも果たしてそうだろうか。

    わたしはわたしのリズムでどこをどうやって歩くか考えたいし、言葉を探したいし、選びたい。それこそ「わたしの人生は、わたしが決められて、本当だと思っていることにも、本当に?と思っていい」。そして知らない誰かにも、そうであって欲しいなと願う。あなたのことをもっと気にかけたい。

    だからこそフィクション作品のコミュニケーションや対話の描写に希望を抱いている。この本には人との哲学対話の様子が書かれているけれど、こんな風に人と話していいんだということを思い出した。本当に忘れていた。日常の些細な出来事、漠然とした考え、空想の話。ままならない、まとまらない自分とあなたがいてもいい。

    すぐに形にして的確に伝える言葉は鋭利になっていないだろうか。もっとやわらかくて、弱い自分とあなたが存在していることを思い出そう。考えよう。哲学しよう。

  • 映画『カラオケ行こ!』を観ました。

    成田狂児役は綾野剛、岡聡実役はオーディションで選ばれた齋藤潤、脚本は野木亜紀子

    原作はヤクザ(大人)と未成年(中学生)がカラオケを通して関わっていく物語で、私も楽しく読んだ。冷静に考えるとアウトな出会い方をしているのに、そのグロテスクさを内包しながらも、コミカルかつ巧みな言い回しによって緩められてる感はある。それをすんなり受け入れてしまっている自分に時々びっくりする。

    正直実写映画化と聞いたときは漫画内のキャラクターを演じられる人はいるの?あの危うい雰囲気を映像化するの?等々、不安と困惑と疑問で頭がいっぱいになった。でも観に行ったら、手のひらを返しすぎてドリルになるくらい面白かったです。野木亜紀子の脚本がうますぎ。

    聡実くんが最後に歌う「紅」がすごすぎた。もう二度と出せないソプラノ…叫ぶたびに掠れる歌声が切なく、だけど力強かったです。

    そしてなんといっても、和田役の後聖人と栗山役の井澤徹の演技が素晴らしすぎました。あんな和山やま作画キャラクター、よう見つけてきましたね。しかも栗山は映画版のオリジナルキャラクターですからね。栗山と聡実くんが映画を観ながら会話するシーンを挟む=メンター的な立ち位置の構築なのかなと思った。このキャラクターを演じた俳優さんの他の演技も見てみたい。

  • 『ユリイカ2021年1月号 特集=ぬいぐるみの世界』をKindleで読みました。

    http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3517

    ぬいぐるみの存在は言語と規範から逃れること、ぬいぐるみを身に纏うことで自分を主張すること、アニメやドラマなどの映像作品・漫画や小説に登場するぬいぐるみに込められたストーリーを想像すること etc…

    様々な視点から語られる「ぬいぐるみ」という存在についての言葉はどれも新鮮で、面白かった。

    一番こころに残ったのは『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の著者である大前粟生さんの言葉と、

    新井素子さんへのインタビューである。

    私は子どもの頃と比べれば、ぬいぐるみとしゃべることは無くなった。どちらかといえば、猫に向かってしゃべることが多くなった。でも仕事からクタクタで帰ってきたときは「疲れた〜」と言いながら少しだけぬいぐるみを抱きしめることはある。そのときにぬいぐるみの目を見つめると、何かを言っているように見えるのだ。私を慰めるような目をしながら、何かを。

    でもその“何か”をこちら側が定義するのは暴力的ではないのか?と思って、結局すぐに目を逸らしてしまう。私とぬいぐるみの関係はそんな感じだ。だからこのお二人の言葉がよりいっそう心に響いたのかもしれない。

    なぜ人はぬいぐるみを愛すのか。あなたにとってぬいぐるみとはどのような存在なのか。

    私の場合、ぬいぐるみを愛するとまではいかないけれど、でもできればあなたの好きな距離感でこれからの私も見守っていてくれたら嬉しいなとは思っている。

  • Netflixで『D.P. -脱走兵追跡官-』を観た。

    このドラマのOPは必ず以下の言葉から始まる。

    大韓民国の男子は法の定めるところにより兵役義務を遂行しなければならない (大韓民国兵役法第3条)

    しかし最終回ではその言葉が以下に変わっていた。

    すべての国民は人間らしく生きる権利を有する 国は災害を防止し その危険から国民を保護するため 努力しなければならない (大韓民国憲法第34条)

    国に命じられて軍隊で戦争の訓練をし、権威を持つものたちから常習的に暴力を振るわれ、そしてそれらは隠蔽される。公になった場合は個人の責任になる。そこには数えきれないほどの歴史があり、その歴史は想像を超えるほど根深いものだ。

    最終回に出てきた台詞が頭から離れない。

    「ここは(軍隊内部の構造)仕方ないところなのです」 「その言葉 “仕方ない”が大嫌いです」

    “仕方ない”で受け流せない人たちの連携が良かった。ただドラマ内では暴力の描写が結構な頻度で登場する。不正や隠蔽を許せない人でさえ、暴力を振るってしまう。暴力に慣れると人を止めるときでさえ拳が出るものなんだと恐ろしくなった。

    国や組織の責任を問い、これ以上人権と尊厳と命を奪われてはいけないと行動する。「全部終わったよ」と周りから言われたとしても、ジュノたちは「終わってない。まだ始まってすらない」と答えるだろう。

  • 『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』を観た。

    MeToo運動のきっかけとなったハリウッドの権力者ハーヴェイ・ワインスタインによる性犯罪被害の実態と報道時の様子を再現した映画。映画業界・ジャーナリズム界における性差別、性犯罪の温存と隠蔽。報道する以前に何度も阻まれ、不安と沈黙を強いられる状況の緊迫感と生々しさが伝わってきた。世間に大々的に報道されたあと、実際に事件として扱われ、ハーヴェイ・ワインスタインに禁固刑が言い渡されたことの意義は大きい。日本は性犯罪者や差別主義者に甘いから(権力者の不正や犯罪が温存されている状況)実際に司法が機能しているのを目の当たりにして、これが「当然」だよなと思った。被害者を守るための法改正と制度づくり、悪しき構造の撲滅が急務なのに、日本は何やってるんですかね…。

    映画内で良かった点は、母親でもある女性記者二人の「仕事と家庭の両立ができない」という描写が無かったところ。多忙ではあるものの、一人で背負うとかがない。職場の上司もパートナーも当たり前に協力する。

    それはどうなんだと思った点はジャーナリストが取材対象である被害者の夫に(具体的な内容ではないものの)事件に関する情報をうっかり漏らしてしまうシーン。本人のあずかり知らないところで、同意なく情報を漏らすのはプライバシーの侵害だしちょっとあり得ないことですね。

  • 群像2024年2月号 高瀬隼子さんの「新しい恋愛」を読んだ。

    https://gunzou.kodansha.co.jp/indexes/2023

    主人公には、優しい姉夫婦と明るい姪っ子、いつか結婚するであろう恋人がいる。絵に描いたような“普遍的で幸せな日常”。

    しかしその一方で、主人公を取り囲む「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」は自己の生活や境界線にジリジリと侵食してくる。

    好意を持った相手に「困ったときはいつでもそばにいてあげたい」「守りたい」「世界を敵に回しても君の味方でいる」と言われると冷ややかな気持ちになるとか、映画を一緒に観ると我慢できる涙まで流してしまうとか(そして「お互いの涙を見て拭って笑う」までがセットになっている)そういう「ロマンティック」とされるものに対する不信感や不気味さみたいなものをリアルに描いていたのがよかった。

    「わたしは、欲しい言葉を差し出せる人ではなくて、欲しくない言葉を突き付けてこない人と、暮らしていきたいのだ」(21頁)

    主人公は↑こう思っているのだけれど、後半からは「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」のオンパレードです。本当の恋を見つけることは素晴らしい!それって愛してるってことじゃん!周りを見ればロマンティックだらけ。そんな、どこにも逃げられない状態を、サイレンに喩えたのは上手いなと思った。

  • 『ブエノスアイレス レストア版』を観た。

    男性同士の愛と別れと約束、ファイ(トニー・レオン)の前進とウィン(レスリー・チャン)の停滞を、湿気がこもった鮮やかな色彩で描いた映画。

    ファイの独占欲と嫉妬心、ウィンの寄る辺なさと真の孤独感が何度もぶち当たっては砕けていく。最後のファイの言葉「会おうと思えばいつでも会える」の意味を反芻してしまうな。私は、偶然を除いて、二人の人生が交わるかどうかは当人次第だと受け取った。でもそれは別離というよりも希望なんじゃないか…?と思えるような、ファイのやわらかい表情が印象的だった。

    まあファイの独占欲でウィンのパスポートを隠すのはひどいと思うけど…。でもパスポートってファイが部屋を退去したときに置いていった(返している)ように見えたのですが、結局のところどうなのだろう?X(旧Twitter)で検索するとパスポート返してあげてって声が多い気がする。

    あと『花様年華』でもあったように、二人の間に起こったことすべてを映すわけではなく、突然場面が切り替わるのがウォン・カーウァイっぽさだなと思った。決して多くない台詞で、俳優の多様な表情と細かい動きを見せることで、時間の経過の残酷さをしっかりと感じさせるのが上手い。

    ファイとウィンの破滅的なやりとりの合間に、チャン(チャン・チェン)という存在が出てくるのもよかった。