• 『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』を観た。

    MeToo運動のきっかけとなったハリウッドの権力者ハーヴェイ・ワインスタインによる性犯罪被害の実態と報道時の様子を再現した映画。映画業界・ジャーナリズム界における性差別、性犯罪の温存と隠蔽。報道する以前に何度も阻まれ、不安と沈黙を強いられる状況の緊迫感と生々しさが伝わってきた。世間に大々的に報道されたあと、実際に事件として扱われ、ハーヴェイ・ワインスタインに禁固刑が言い渡されたことの意義は大きい。日本は性犯罪者や差別主義者に甘いから(権力者の不正や犯罪が温存されている状況)実際に司法が機能しているのを目の当たりにして、これが「当然」だよなと思った。被害者を守るための法改正と制度づくり、悪しき構造の撲滅が急務なのに、日本は何やってるんですかね…。

    映画内で良かった点は、母親でもある女性記者二人の「仕事と家庭の両立ができない」という描写が無かったところ。多忙ではあるものの、一人で背負うとかがない。職場の上司もパートナーも当たり前に協力する。

    それはどうなんだと思った点はジャーナリストが取材対象である被害者の夫に(具体的な内容ではないものの)事件に関する情報をうっかり漏らしてしまうシーン。本人のあずかり知らないところで、同意なく情報を漏らすのはプライバシーの侵害だしちょっとあり得ないことですね。

  • 群像2024年2月号 高瀬隼子さんの「新しい恋愛」を読んだ。

    https://gunzou.kodansha.co.jp/indexes/2023

    主人公には、優しい姉夫婦と明るい姪っ子、いつか結婚するであろう恋人がいる。絵に描いたような“普遍的で幸せな日常”。

    しかしその一方で、主人公を取り囲む「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」は自己の生活や境界線にジリジリと侵食してくる。

    好意を持った相手に「困ったときはいつでもそばにいてあげたい」「守りたい」「世界を敵に回しても君の味方でいる」と言われると冷ややかな気持ちになるとか、映画を一緒に観ると我慢できる涙まで流してしまうとか(そして「お互いの涙を見て拭って笑う」までがセットになっている)そういう「ロマンティック」とされるものに対する不信感や不気味さみたいなものをリアルに描いていたのがよかった。

    「わたしは、欲しい言葉を差し出せる人ではなくて、欲しくない言葉を突き付けてこない人と、暮らしていきたいのだ」(21頁)

    主人公は↑こう思っているのだけれど、後半からは「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」のオンパレードです。本当の恋を見つけることは素晴らしい!それって愛してるってことじゃん!周りを見ればロマンティックだらけ。そんな、どこにも逃げられない状態を、サイレンに喩えたのは上手いなと思った。

  • 『ブエノスアイレス レストア版』を観た。

    男性同士の愛と別れと約束、ファイ(トニー・レオン)の前進とウィン(レスリー・チャン)の停滞を、湿気がこもった鮮やかな色彩で描いた映画。

    ファイの独占欲と嫉妬心、ウィンの寄る辺なさと真の孤独感が何度もぶち当たっては砕けていく。最後のファイの言葉「会おうと思えばいつでも会える」の意味を反芻してしまうな。私は、偶然を除いて、二人の人生が交わるかどうかは当人次第だと受け取った。でもそれは別離というよりも希望なんじゃないか…?と思えるような、ファイのやわらかい表情が印象的だった。

    まあファイの独占欲でウィンのパスポートを隠すのはひどいと思うけど…。でもパスポートってファイが部屋を退去したときに置いていった(返している)ように見えたのですが、結局のところどうなのだろう?X(旧Twitter)で検索するとパスポート返してあげてって声が多い気がする。

    あと『花様年華』でもあったように、二人の間に起こったことすべてを映すわけではなく、突然場面が切り替わるのがウォン・カーウァイっぽさだなと思った。決して多くない台詞で、俳優の多様な表情と細かい動きを見せることで、時間の経過の残酷さをしっかりと感じさせるのが上手い。

    ファイとウィンの破滅的なやりとりの合間に、チャン(チャン・チェン)という存在が出てくるのもよかった。

  • 『ウーマン・トーキング 私たちの選択』を観た。

    知らぬ間に性暴力を受けていた女性たちが主体性と尊厳を取り戻すために、対話を重ねていく様子を描いた映画。性暴力被害の事実を知った上で、何を・どの道を選択すべきか、必ずしも一致しない意見と行動にどう折り合いをつけていくのかが語られる。
    ことを語る言葉がなかった 言葉がない場所にあるのは沈黙だ 沈黙こそ恐怖だった」と明かすこと、立場の弱い被害者が「赦し」を強要されるのは「赦しの誤用」としっかり明言すること、どれも必要であり、一人一人が持たなければいけない認識だなと思った。
    サポートやケアがない極限状態で限られた選択肢を強いられる精神的負担や、オーガストはあの村で生きていけるのだろうかとか、観終わったあとも色々考えてしまうし、考え続けなければいけない問題ですね。

  • 『科学者の社会的責任』を読んだ。

    https://www.iwanami.co.jp/book/b378357.html

    研究結果が社会にもたらす影響、科学者の社会的責任を複数の視点から捉え直すという内容。
    報道のあり方、公共空間を育てる技術文化の醸成、リベラルアーツとシティズンシップの話も出てきたけど、この本が書かれたのって2018年なんだよな(東日本大震災についての記載もある)。
    今の日本の社会状況は悪くなるばかりか、これに出てくる「土壌を耕す」すら出来てない。

    「公共空間の課題では、既存の組織の壁を固定したうえで組織の責任を追及するだけでは問題が解決できない。第6章でも議論したように、固定された組織の責任を考えることにとどまらず、その組織や制度をどのように変えれば当該問題がおこりにくくなるのかを皆で考えることが重要となる。(79頁)」

    「リベラルアーツは、ただ多くの知識を所有しているという静的なものではない。自ら思考する力が必要となる。自分とは異なる専門や価値観をもつ他者と対話しながら、他分野や異文化に関心をもち、他者に関心をもち、自らのなかの多元性に気づいて自分の価値観を柔軟に組み換えていく。そのような開かれた人格を涵養するのがリベラルアーツ教育である。(82頁)」

    「リベラルアーツ教育は、じつはシティズンシップ教育とつながっている。シティズンシップとは市民性を指し、市民が市民権を責任もって行使することを指す。市民をたんなる経済活動の中の受動的アクターとしてみるのではなく、能動的な主体としてみる見方である。(83頁)」

  • 『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を観た。

    https://youtu.be/RKP49hL6BoQ?si=-V8o0NfRkigtAQPn

    「世の中そういうもん」と受け流せず、自分の言葉が人を傷付けるかもしれないという不安を抱えている人たちがぬいサーの部員として、ぬいぐるみとしゃべることを通じて、感情を吐露する場面が何度も出てきた。
    割り切って生きることができれば…でも自分にはそれがどうしてもできないって気持ちが痛いほど分かった。
    最後のシーンで、七森と麦戸がぬいぐるみを抱っこしながら、でもお互い向かい合って「話そうよ。話してないことがたくさんありすぎる。全然大丈夫じゃない」という話をしていたのも良かった。
    そしてわたしはずっと白城の打たれ強さと「わたしはぬいぐるみとしゃべらない」という選択について考えている。

  • 言葉たりえないものを表現すること 〜 『詩を書くってどんなこと?』

    https://www.heibonsha.co.jp/smp/book/b427760.html

    若松英輔による本『詩を書くってどんなこと?』を読んだ。この本は平凡社が出している「中学生の質問箱」シリーズのひとつである。いわゆる「素朴な疑問」に対して、その筋の専門家が丁寧に答えてくれる。物事をわかった気でいる大人(私のこと)が読んでも面白いです。

    「詩ってなんだろう?」という漠然とした疑問が生まれたのは、ゲーム『魔法使いの約束』をプレイしてからだ。

    私の推しは世紀の天才学者と謳われたムル・ハートなのだが、彼の話す言葉は哲学的で、知的で、情熱的で、聞いていると胸がざわざわしてワクワクする。彼と初めて(ゲーム内で)邂逅したとき、「あなたはきっと、私に失望なさるでしょう。それでも、あなたと友人になれたなら、私はとても嬉しい」と言われたことを何度も思い出す。なんと詩的な表現なんだろう。

    そもそも失望されるってどんな気持ちになるんだろう。「それでも、」の後に続く言葉に、どんな切実さや願いが込められているのだろう。もしも私がムル・ハートのように、何かを詩のように表現することができたならどんな気分になるのだろう。そんな疑問から『詩を書くってどんなこと?』を読み始めた。

    この本には「詩を書くことはまるで、言葉というスコップで、人生の宝物を探すようなもの」であり、「ほかの誰のものでもない、自分にとっての「ほんとう」の何かを探す旅」と書かれていた。確かにこの考え方はムル・ハートが言っていた「人生は旅さ! 二度と出会えない素敵なものに、 あふれてる」に通ずるところがある。 そして「詩」は言葉では容易に語れない何かを表現しようとする試みであり、「詩情」は言葉では語り得ない何ものかを受け取ろうとするこころのありようを表しているそうだ。

    人は「愛」とは何かを知らないのにこの言葉を用いるし、「愛」という言葉を使わずにそれを表現することもできる。「花」と言われたときに、どんな花を想像するかは人によってぞれぞれ違う。 私たちは自分の感じていることはきっと言葉にならない、そう思わざるを得ない経験を生きている。でも書くことによって、言葉たりえないものに近づいていき、より深めていく。書くという営みはそういうもので、それが分かればすでに詩人なのである。 私がこの世に言葉を留めておきたいと思う気持ちも、人の言葉や物語に救われる気持ちも、詩になり得るということが分かった。 最後はムルの詩的な言葉を引用して終わります。

    この世のすべては自己探求のためにあるのさ。俺の知恵も、俺の好奇も、俺の情熱も、俺の魂のありかを知るためにある。きみも感じて、聞いて、味わって、触れて、世界と戯れながら、自己を探求して。きみの世界に、きみの魂の感性以上に、大事なものなんてないんだからね。

    (引用:『魔法使いの約束』ムルの親愛ストーリー【意地悪な探求者】7話)

  • Disney+で『私ときどきレッサーパンダ』(原題:Turning Red)を見た。

    舞台は2000年代のカナダ・トロント。そこのチャイナタウンで暮らすメイは由緒ある寺の家系に生まれ、厳格な母親の期待に応えようと日々勉強や家事を頑張る真面目な13歳の女の子。学校では成績優秀な生徒でありながら変わり者と称されるほどパワフルな性格の持ち主で、親友のミリアム、プリヤ、アビーとふざけ合ったり、一緒に好きなアイドルグループ『4★TOWN』のことを語り合うのが日課になっている。これはそんなメイが、ある日突然「先祖の呪い的なパワー」によってレッサーパンダに変身してしまうという物語である。

     メイがレッサーパンダに変身する条件については色々な解釈があるものの、私は『感情が昂ったとき(この中には思春期による心身の変化なども含まれている)』だと考えている。隠れて自分のノートに描いた“気になっている男の子(コンビニ店員のデヴォン)の絵”や“デヴォンとメイ自身のロマンティックな絵”を母親に無断で見られてしまったことや、その絵を見て怒った母親がデヴォンが勤務するコンビニへ向かい、娘をたぶらかすんじゃない!と怒りながらメイが描いた絵を数人の客の前で(その中にはクラスメイトのヤンチャな男の子もいた)晒したこと、そして絵を人に笑われていじられたこと等が変身のトリガーとなったようだ。意気消沈しているメイに向かって母親は「これでもう大丈夫よ」「他にもママが知っておくべきことはある?」と言っているので、あくまでタチの悪い男の子から純粋無垢な娘を守ったと思っている様子。昔から両親を敬うことを教えられてきたメイは「あんな絵を描くなんて下品だ、最低だ。ママごめんなさい」と猛反省し、二度と描かないと誓う。

    翌朝目が覚めるとレッサーパンダに変身していたことから、「性的興奮」を表に出すのはいけないことであり、それを絵にしてしまった自分は「恥ずかしい」存在で、どうしてそんな下品なことをしてしまったんだろうと自分に対する「嫌悪」や「怒り」を募らせ、明日からどうすればいいんだという「不安」が一気に溢れ出てしまったんじゃないかと思う。ちなみにいったん深呼吸をして冷静になるとレッサーパンダから人間の姿に戻れるので、『レッサーパンダにならないよう気をつける=感情を表に出さない』ことであると判断した。

     色々あってメイは母親にレッサーパンダの姿を見られてしまうのだが、そこで判明したことは「レッサーパンダに変身する能力」は先祖代々受け継がれてきたもので、遠い昔戦いが続き男たちが村を留守にしている間、悪党から村を救うため、レッサーパンダに変身して戦う能力を神から与えられたのだそう。戦うことが不要となった現代においてこの能力はただの厄介なものとされており、一族の女性たちは普段その力を髪飾りやペンダントなどに封印している。レッサーパンダの力を使いすぎると人間の姿に戻るのが難しくなるということが、メイにとっての「呪い」の力になってしまう。メイは家に閉じこもってレッサーパンダに変身しないよう感情をコントロールする特訓を始めるが、メイを心配した親友たちが家にやってきてレッサーパンダであることがバレてしまう。親友たちは最初は驚いたものの、その可愛らしい姿に大興奮。メイは「自分はバケモノだ。1人にして」と号泣するが、それを聞いた親友たちが推しのアイドルグループ『4★TOWN』の曲を歌い、「大好きだよ。友達でしょ。メイはメイ、レッサーパンダでもそうじゃなくても」という優しい言葉をかける。私は「さっきまで“呪い”だと思っていた部分が他者の言葉によって全部ひっくり返る」このシーンがとてもお気に入りだ。ここからメイは感情のコントロールが上手くなっていき、自分の意志でレッサーパンダに変身することが可能になる。前半は“ネガティブな感情”、後半は“ポジティブな感情”の表出と、変身条件が変わっていることも重要な点だと思う。

     『4★TOWN』のライブに4人で行くため、レッサーパンダの姿で学校の生徒と撮影会を実施したり、グッズの製作や販売を始めて資金を稼ぐメイたちの姿を見ていると「オタク力(ぢから)」の凄まじさと執念を感じた。無事ライブには行けたものの、言うことを聞かない娘に怒った母親が巨大なレッサーパンダに変身してライブ会場をぶっ壊したりしてもうてんやわんや。親子喧嘩の規模がデカすぎる。メイは母親に対して「レッサーパンダでお金を稼ぐのも、パーティへ行くのも私が言い出した」「男の子、大音量で聴く音楽、チャラい踊りも大好き」と高らかに宣言する。このときメイは生まれて初めて母親に“反抗”した。そのあとは母親の力を封印するために一族の女性たちも身につけていた髪飾りやペンダントなどを壊してレッサーパンダに変身するのだが、そのシーンには『美少女戦士セーラームーン』のオマージュがふんだんに散りばめられている。あとから映画のメイキング映像を見てみるとドミー・シー監督は日本のアニメや漫画に強く影響を受けており、二次創作をネットにアップしていたという生粋のオタクだったのでそういった点も『私ときどきレッサーパンダ』に反映されてるんだなと思った。しかしながら、日本のアニメや漫画でよく見るような美化された女の子ではなく、足の太さや顔のホクロ、眉毛の一本一本まで細かくリアルに描いているのは素晴らしいし注目すべき点である。

    封印の儀式は親友やライブに来ていたファン、そして『4★TOWN』の歌の力も加わり無事成功。メイは気づくと竹林(おそらくレッサーパンダを引き剥がし封印する境界のような場所)にいて、そこで自分と同じくらいの歳の母親と遭遇する。母親もまた「良い子でいることに疲れた」「母さんは満足しない」と泣いており、そこで初めて自分と同じ気持ちを抱いていたことを知る。メイは泣いている母親に「ママはママでいいの」と声をかける。これはメイが落ち込んでいたときに親友たちから言われた言葉だ。レッサーパンダを封印する(抑える)のは女性(ここでは移民女性)が社会に順応していくことの暗示という認識だが、他の女性たちが竹林でレッサーパンダを封印する中で、メイがレッサーパンダと共に生きることを選んだのは大きな決断だと思った。

    そういえば妖怪シェアハウスの最終話でも澪が怒りの象徴と言われる鬼の「ツノ」と共に生き、「妖怪化」することを選んだ展開があったよね…と思い出したりした。

    そしてこのパンダ事件をきっかけにリー家の寺院は大繁盛し、そのお金の一部はライブ会場の修繕費にあてられることとなる。

    物語の最後はメイのこんな言葉で締めくくられる。

    野獣は誰の心にもいる。みんなメチャクチャでおかしな部分があるのにほとんど表に出さない。でも私は出したよ あなたはどう?